もてはやされるフェミ化の落とし穴、新生・氷川きよしは本当に成功するのか。
異端に徹して生きる
じつは新境地に挑み始めた背景にも、演歌が古典芸能化して衰退しつつあることへの危惧があるという。そこで、あえてジャンルを超え、演歌だからいいではなく、氷川きよしだからすごい、という世界を模索し始めたわけだ。
これにより、彼の歌には独特の魅力が加わりつつある。11月には「新・BS日本のうた」で「大阪で生まれた女」を「うたコン」で「月がとっても青いから」をそれぞれカバー。女歌や女性歌手の古典的名曲がサマになるのは、彼自身がフェミニンな人であることはもとより、演歌に出会うまで、ポップスを歌っていたことも関係している。
もともと、両方の発声法ができる人なのだ。それがポップスにも力を入れ始めたことにより、二刀流的な自在感が一気に高まった。その自在感はかつて、どんなジャンルも歌いこなした女王・美空ひばりに通じるものだ。最新アルバムでひばりの「歌は我が命」をカバーした氷川は、その発売記念イベントで「最近、ひばりさんにはまっています」として、ものまねも披露した。
また、ひばりは中性的とか両性具有的とも評された人である。ただ、あくまで「女」として生きた。そういう意味で、氷川が目指すとすればもっと別のタイプの歌手だろう。
たとえば最近、ミッツ・マングローブがこんな文章を書いている。
「夏の武道館公演を観た際、特に絶唱系の演歌を唄う姿が、幾度となくフレディ・マーキュリーと重なる瞬間がありました。『影響を受けていそう』とか『寄せている』とかではなく、期せずしてごく自然に。(略)『きよしのボヘミアン・ラプソディ』のリリースを希望します」(「週刊朝日」)
とはいえ、気になるのは氷川を「演歌のプリンス」として応援してきたファンの反応だ。ミッツのような人が絶賛する歌手をこれまで通り、好きでいられるだろうか。フレディが今、もてはやされるのもエイズで亡くなったという悲劇的宿命によるところが大きい。美輪明宏もそうだが、異端であるがゆえに迫害され、笑われたりもした人たちだ。
氷川自身は笑われる覚悟があるとしても、笑われるような歌手をこれまでのファンが好きでいられるかはわからない。まして、彼を支持してきたのは古いジェンダー観をよしとしてきた年代だ。王道と異端の両立は、演歌とポップスの二刀流ほど容易ではない。事務所やレコード会社は、気が気ではないだろう。
前出の「スポーツ報知」のインタビューで、結婚について、氷川はこんな発言をした。
「それはもう氷川きよしには必要ない。ホッとする家族の空間は手に入れられなかったけど、その分ほかのものを手に入れた。華やかに一生を歌にささげていきます」
この理由が、歌やファンこそが恋人、ということならいい。が、法律上無理だからということも含まれるとなると、違和感を覚える人は少なくないはずだ。
和田アキ子もそのあたりが気になるようで「アッコにおまかせ!」ではこんな心配もしていた。
「“急にどうしたの?”っていうのはあるけど、ファンが喜んでくれてるんなら。ついてくるんなら」
実際、今回の「変化」についてこられないファンはいるだろう。もちろん、新たにつくファンもいるだろうが、その増減がどうなるのか、これはLGBT的なものを今の世の中がどこまで受け容れられるか、ということを探る壮大な実験でもある。
ただ、その結果に氷川が期待しすぎると落とし穴にハマりかねない。メディアも世間もただただ移り気だからだ。そもそも、王道感を維持しながら、異端としても面白がられ、人生の幕を成功裡に閉じたスターなど皆無である。戻るなら今のうちだし、そうしないなら、今後は異端に徹して生きるくらいのつもりでいたほうがよいかもしれない。
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『痩せ姫 生きづらさの果てに』
エフ=宝泉薫 (著)
女性が「細さ」にこだわる本当の理由とは?
人類の進化のスピードより、ずっと速く進んでしまう時代に命がけで追いすがる「未来のイヴ」たちの記憶
————中野信子(脳科学者・医学博士)推薦
瘦せることがすべて、そんな生き方もあっていい。居場所なき少数派のためのサンクチュアリがここにある。
健康至上主義的現代の奇書にして、食と性が大混乱をきたした新たな時代のバイブル。
摂食障害。この病気はときに「緩慢なる自殺」だともいわれます。それはたしかに、ひとつの傾向を言い当てているでしょう。食事を制限したり、排出したりして、どんどん瘦せていく、あるいは、瘦せすぎで居続けようとする場合はもとより、たとえ瘦せていなくても、嘔吐や下剤への依存がひどい場合などは、自ら死に近づこうとしているように見えてもおかしくはありません。しかし、こんな見方もできます。
瘦せ姫は「死なない」ために、病んでいるのではないかと。今すぐにでも死んでしまいたいほど、つらい状況のなかで、なんとか生き延びるために「瘦せること」を選んでいる、というところもあると思うのです。
(「まえがき」より)